─ 社員とつくった理念と、社員に配った理念

立派な言葉は、どちらの会社にもありました。それでも数年後、片方の会社では理念が日々の判断のなかで生きて働き、もう片方では誰も一文を思い出せませんでした。分けたのは言葉の出来栄えではなく、言葉が生まれる過程に誰がいたかです。
分岐点:理念を、社員とつくったか。社員に、配ったか
2018年4月にソニーの社長に就任した吉田憲一郎さんが最初に手をつけた仕事のひとつは、会社の存在意義を問い直すことでした。ただし、経営陣で言葉を決めて発表する道は選びませんでした。就任まもない2018年7月、社内ブログで「ソニーの存在意義を見直したい」と全社員に呼びかけたのです。
音楽・映画・ゲーム・半導体・金融と、まるで違う事業で働く世界約11万人の従業員から意見を集め、各事業のトップとも議論を重ねて、約半年後の2019年1月にパーパス「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす。」を発表しました。発表後の社内調査では、従業員の8割以上がこのパーパスを肯定的に受け止めたと報じられています。
研究の側からも、この進め方の合理性は裏づけられつつあります。ガーテンバーグ(クローディン・ガーテンバーグ/ペンシルベニア大学ウォートン校准教授)らが米国企業の従業員約50万人のデータで示したのは、パーパスの言葉の強さそのものではなく、パーパスが「明瞭さ」をともなって、とくにミドルマネジャー層に届いている企業ほど、後の業績が高いという事実でした。理念は、現場の中間層が自分の言葉で語れてはじめて、経営の力になります。
出典:日経クロストレンド「ソニーのパーパスはなぜ従業員に支持されたか」、Biz/Zine「なぜソニーは新たにPurposeを掲げたのか」、Gartenberg, Prat & Serafeim (2019) Organization Science

ある会社の周年事業。経営企画室と外部の支援会社が数ヶ月かけて、会議室で言葉を磨き上げました。「挑戦」「共創」「持続可能」──どこからも異論の出ない、そしてどこかで見たことのある言葉が並びます。役員会は満場一致でした。
全社発表会は盛況でした。新しい理念を刷ったカードが配られ、額縁が受付に飾られ、社内報が特集を組みました。そして、ここでこの施策は「完了」になりました。現場の翌朝は、昨日までとまったく同じです。会議の議題も、稟議の基準も、評価の項目も、何ひとつ変わりません。
1年後、理念をそらで言える社員はまばらになりました。廊下の額縁は、いつからか誰の目にも入っていません。「また何か始まって、終わったね」──次の施策が発表されたとき、現場がそう受け止める素地だけが残りました。
この結末は例外ではありません。パーソル総合研究所の調査(2023年)では、勤め先の理念を「十分に理解している」と答えた働き手は41.8%。策定の過程に対話の機会や意見の吸い上げがあったという回答は2割台にとどまり、同調査は、密室でつくって一方向に伝える「暗室-伝達型」から、現場を巻き込む「共創-拡散型」への転換を提言しています。HR総研の調査(2013年)でも、理念が「浸透している」と答えられた企業はわずか6%でした。
※ この失敗事例は、実在する特定の団体・個人を描いたものではなく、複数の実例をもとに再構成した「典型パターン」です(編集方針:読む前の、三つの約束)。
理念を、社員とつくったか。
社員に、配ったか。
ふたつの理念は、文面だけを並べればほとんど区別がつきません。分けたのは言葉の質ではなく、言葉が生まれる過程に現場がいたかどうかです。人は、自分が手を入れたものを「自分のもの」として扱います。行動科学ではIKEA効果や心理的オーナーシップと呼ばれる、人類共通の仕様です。逆に、完成品として配られた言葉は、どれほど立派でも「会社の言葉」のままです。暗唱はできても、判断には使われません。
もうひとつ、見落とされがちな皮肉があります。対話に半年かけるのは遠回りに見えますが、配って終わった理念は、数年後にまた「浸透しないので刷新しよう」という話になり、結局つくり直しになります。いちばん高くつくのは、速くつくることではなく、二度つくることです。
理念を「つくって終わり」にしない策定と運用の設計を、経営者・人事担当者と一緒に行っています。
組織開発プログラムを見るこの事例の要点をA4一枚にまとめた要約版(PDF)もあります:社内検討用にダウンロード無料・登録不要/出典表記のままご利用ください(CC BY-NC-SA 4.0)
日経クロストレンド「ソニーのパーパスはなぜ従業員に支持されたか 8割が肯定評価」/Biz/Zine「なぜソニーは新たにPurposeを掲げたのか」/パーソル総合研究所「企業理念と人事制度の浸透に関する定量調査」(2023年)/HR総研「企業理念浸透に関するアンケート調査」(2013年)/Gartenberg, C., Prat, A. & Serafeim, G. (2019). Corporate Purpose and Financial Performance. Organization Science, 30(1).
成功の航路は公開報道・研究にもとづく実名事例です。失敗事例は、複数の実例をもとに再構成した匿名の典型パターンです。シリーズの編集方針はハブページ「読む前の、三つの約束」をご覧ください。テキストは CC BY-NC-SA 4.0 で公開しています。